Short essay series: 2
バフチンの笑いとグロテスクな躍動(2)
1.10.2021 Sakai Tomoko
1.10.2021 Sakai Tomoko
肉体の「下(しも)」の領域、開閉する穴
グロテスク・リアリズムが「陽気」なのは、その肉体への関心の持ち方にある。
ラブレー文学は、消化、排泄、生殖にかかわる肉体の「下層的領域」に焦点を当てていく。牝牛から熊から宴のテーブルからあらゆるものを貪り尽くし、その尿で何百人をも溺れ死なせてしまう巨人パンタグリュエル、男根の巨大さを示すものとして何度も登場する大きな鼻といった具合である。
その笑いは往々にして「上にあるものを下に移す」笑いだった。衣装を裏返しに着たりズボンを頭にかぶったりする女王や王が演じられるなど、カーニバルで特権階級がみっともなく表現され笑いの対象となる様子が、当時の文献には多く記録されているという。ラブレー文学には卑猥な言葉を話す司祭や教父も数多く登場する。
ここで重要なのは、当時の公的な政治と宗教の支配の中では、「笑い」はおおむね禁じられたものだったということである。生まれながらの身分の貴賤がはっきりと定められ、厳粛な序列が重視される社会において、笑いのようなふまじめで卑俗なものは、高貴な者に向けてはならぬもの、まじめな場では発してはならないものとされていた。その禁忌はカーニバルのなかにおいてのみ、ゆるされていたのである。
けれどもカニバレスクな笑いを、ふだん威張っているものを見下して民衆が鬱憤を晴らしているだけのことととらえるべきではない。その下にはより深く、より広く、ひとつの世界観がたゆたっている。
グロテスク・リアリズムが執拗にこだわるのは肉体の「穴」、および穴から出入りするモノや、穴の開閉とともに形を変えていく肉体の姿である。くしゃみとともに口と鼻から飛び出す飛沫、暴飲暴食、排便排尿。そして懐胎してふくらむ腹。ラブレーの作品では、男女を問わず人々がふくらんだ腹から実にさまざまなものをひり出す。多くは役にも立たない「きたない」だけの何かだが、時に躍動が、生命が放出される。
そこにおける肉体のイメージは、古代ギリシャ・ローマ、あるいは近代の古典主義の肉体観とは根本的に異なるものだ、とバフチンはいう。古典主義で賛美される肉体においては、それぞれの部位のあいだの完璧な比率(プロポーション)が強調された。モチーフとして描かれたのは、誕生からも、老いや死からもいちばん遠ざかっている年代の、「完成された」人間の肉体である。開閉部があることなど意識させないその滑らかな体表は、高貴な精神性を内部に閉じこめて、世界と個人とをわかつ。
現実的に考えたとき、このような肉体観には無理がある。完璧さを満たすことのできない、高邁な精神を体現しない醜くきたない肉体は、理性の外に置かれ、人間存在に必然的につきまとう不気味なものとして蠢きつづける。つまるところ、それがロマン主義的グロテスクなのだ。
しかし中世のグロテスク・リアリズムは、そのような煩悶とはまったく別の次元で展開されていた。そこにおいて、完成されていないこと、変容の途上にあることは積極的に受けいれられてしまう。体表よりも身体の内側にある内臓に興味が寄せられる。血や便、唾を垂れ流し、腹、鼻、唇を膨れあがらせた肉体が次から次へと登場する。「食べること」の主客の区別はあいまいになり、他の動物を食うことと何かに食われることとがエピソード上で重ね合わされる。重要なのは「肉体から這出してくるもの、突出ているもの、ひょこひょこ顔を出すもの」であって(p280)、自身の境界を超えるようななにかを生み出しつつある肉体である。
この想像力のなかでは、世界は征服の対象とはならず、自身をおびやかす他者として目の前に立ちもしない。そうではなく、個人は他者と、そして自分をとりまくさまざまな有機物無機物と融合し、自身は世界の側に溶け出し、また世界は自身のなかに染み込んでくるのである。
「完璧である」(秩序だっている)とは、言い換えればそれ以上変容しようがないということだ。つまり、内に秘められた未来への可能性をすでに持たないということである。それに対し、ぽっかりとひらいた穴から何かを垂れ流し、内部の何かをのぞかせている醜くきたない肉体は、異なるものをも呑み込んで融合し、或いは吐き出す途上にあるがゆえに、本質的な変容を絶え間なくつづけていく。ゆえに中世民衆文化のグロテスクを静的に把握するすべての試みは誤っている、とバフチンはいう。そこにあるのは、きわめて動的な、存在肯定の思想なのである。
しかし、このような発想は民衆文化のなかでもしだいに力を弱めていく。たとえば排泄とともに肉体の「下方の」領域をかたちづくり、普遍的な世界観と結びついていた生殖にまつわるものごとは、17世紀以降、私的で性的なものとして矮小化され、個人の内部の闇のなかに閉じ込められていった。もはや「下」の笑いはあけっぴろげな笑いではなく、いつもは隠されていて時に小さく棘をのぞかせるような、風刺的でアイロニカルなものへとなっていく。
「きたない」ものと笑い
ところで、とここで問うてみたい。「下(しも)」の笑いはグロテスク・リアリズムに限ったものではなく、世界各地でみられる感覚だ。けれども、そもそもなぜ「きたないもの」は笑いを呼び起こすのか?
第一素描で確認したように、汚穢は「危険と見なされたもの」でもあったはずだ。「きたない」とは危険に対する恐怖とも結びついた感覚なのである。バフチンが笑いをさそう陽気なものとして論じた「下(しも)」の分泌物と排泄物とは、まさしく危険な「汚穢」として遠ざけられるものでもある。
汚穢論を論じたメアリー・ダグラスは、実は冗談についても論文を残している(“The Social Control of Cognition: Some Factors in Joke Perception,” Man, 3(3), 1968)。スカトロジー(糞尿譚)は、明白な様式(パターン)の影にある隠れた様式に光を当てる冗談の性質を典型的に示すものだ、とダグラスはいう。ある真剣な意味の流れや法則性が展開されているときに、それらとはまったく無関係に、肉体にかかわる現象が平行して動いていることに光が当たる。そのときに笑いが生じる。ベルグソンの笑い論とも共通する見方だ(『笑い─ 喜劇的なものが指し示すものについての試論』竹内信夫訳、白水社、2011年)。
「下(しも)」の笑いは、その原理における笑いの極端な事例といえるものだ。
排泄や排泄物が笑うべきものとなるのは、「きたない」ものじたいが「おかしい」からではない。まじめで品のよいものが、その表向きのありかたとは関係なく、なお平凡な人間たちと同様に忌避すべきものを嫌でも吐き出してしまうという二重性が、「おかしみ」を誘うのである。「きたない」ものが文脈なくただ単独で置かれていたとしたら、それは忌避感と不安の感覚を強く呼び起こすだけだ。
笑いとともにある複数的な視点は、ものごとを厳粛にとらえる「強制」「禁止」の力を雲散霧消させる、あるいは保留する。けれどもその視点が成立するためには、ただ「きたない」ものばかりを褒めそやしていればよいのではない。「きたない」ものの破壊的な力と面白さとは、真剣なものや秩序だったものとのつながりの矛盾に分け入ってこそ、はじめて浮かび上がってくる。
ハンス・ホルバイン『死の舞踏』(1523-26)より「新婦」(Wikimedia Commons)
恐怖、あきらめ、陽気さ
バフチンのグロテスク論は、当初発見されたローマ遺跡の文様からはるかに離れた地点までいたっている。古代ローマの装飾文様と後期中世の民衆文化の宇宙観をつなげる彼の論は史的証拠を欠いた思い入れだけの飛躍、と批判することも、おそらくできるのだろう。そもそも中央権力に統御された厳粛さをひっくり返す民衆の笑いに可能性を見出すその議論は、ソビエト連邦のスターリニズムに対する批判意識に根をはっていた。ドフトエフスキー小説の対話性についての著作の発表後ほどなくして、バフチンは秘密警察に逮捕されている。本素描で論じてきたラブレー論はもともと彼が博士論文として提出したものだったが、そのアナーキズム性を強く問題視され、低位の博士学位しか与えられていない。
そうした政治背景をもつ彼の論は、社会変革への期待のなかで民衆の豊穣なエネルギーを強調するあまり、「グロテスク」なものの恐怖と闇を、浅く見積もりすぎているようにも思われる。
自他の境界を失い、汚穢とともに新しい生命を生み出して世界と一体化する肉体のありようは、これ以上ない命の躍動として、永続的に陽気な世界観をあらわすかもしれない。けれどもそれは、個人という枠が意味をなさなくなり、この「わたし」の自我が消失することと同義である。
そもそもルネッサンスに至る直前の中世末期とは、黒死病が蔓延し、戦争や蜂起が各地で勃発した時期だった。ハンス・ホルバインの版画集を代表とするような、富める者も権力ある者も、老いも若きも皆等しく死すべき運命にあるという「死の舞踏」モチーフの美術が数多く描かれた時代である。世界との一体化のイメージによる死の恐怖の克服とは、個々人にさしせまった「自らの死」という恐怖ゆえの諦念と考えることもできる。
諸星大二郎「生物都市」の後半では、調査船が衛星イオで何に遭遇していたのかが語られる。じつはイオにはかつてすぐれた文明があったが、気候変動のために破滅の危機にひんし、滅亡をおそれたイオ人たちは無機物と一体化しひとつの生命体となることを通じて、延命をはかろうとしたのだった。その巨大生命体に接触してしまった調査隊が、この融合現象を地球に持ち帰ってしまったのである。自身も融合におかされはじめた科学者が、「科学はまけたのではない」、「夢のようだ……あたらしい世界がくる……理想世界が……」と呟くところで作品は終わる。
その「夢」「理想世界」の用いられ方はアイロニカルだ。ただしこれが、もし明るい肯定的な理想として描かれていたとしたら、そこに口を開けていたのはぞっとする狂気でもあったのではないか。
笑いは恐怖の対極にあるのではなく、恐怖を克服したからこそ笑いが可能になるわけでもない。おそらく徹底的な陽気さは、さいはての恐怖において、恐怖のただ中から発せられる。そのとき、不気味なものとしてのグロテスクと、肉体的原理の陽気で快活な肯定としてのグロテスクは、思いのほか近い位置にある。